
フランツ!!!
フランツと「さよなら」する日が来ないようにココロの奥でずっと祈ってた。
フランツは「特別なんだ」「100年も200年も生きれる子なんだ」とコドモじみた思い込みをムリヤリ自分自身に植え付けていた。
だって実際大きな病気になったこともないし、1年位前はこの子は歳のワリにホネも体つきもがっしりして若若しいネ、なんて医者から言われてたし、ヴェトナムのカントーって街の食堂では、フランツの写真を見て、この写真をゼヒゆずって欲しい、この子は神の使いだから、店に飾って商売繁盛のお守りにする、なんて言われたこともあった。そしてボクも、あぁ確かにこの子は神の使いに違いない、と納得して、店に1枚あげたのを覚えている。
この子と暮らし始めてから1度も獣らしさを感じたことはなく、本当にニンゲンか、それ以上の何か、としかボクには思えず、ここまで素晴らしいのだから、いっそニンゲン語をしゃべればいいのに、と本気で、何度も、思ったほどだった。そして、それくらいのことはフランツにとってはカンタンなことで、いつでもコトバをしゃべりだせるのに「あえて」ニャーとかゴロゴロなんて、ネコみたいな真似をしてるのだ、と思っていた。
そして、フランツは当然ボクなんかより大きくて崇高な何かであったから、ボクはコドモのように思うなんて僭越な生意気なことは思わなかった。親、またはそれ以上の何か、として捉えていた。
フランツがこの世から離れなければいけない原因の遠く、もしくは近くにはきっとボクの愚かしさがある。
その大きな何かを失った責任もすべてボクにある。
17年間。
と一言でいっても、永かったとも短かかったとも思わない。記憶というのはボクにとっては、ボンヤリとした淡いもので、4年であろうが80年であろうが、きっとそのとらえどころなさは変わりない。
そのあわあわとしたもののなか全体にフランツの声と匂いと重さがくまなく行き渡っているだけだ。
そして、今ここにいないことの痛切さが、未来のあらゆる時間につきまとうことがわかるだけだ。
フランツはいつもボクを待っていた。
どこにいてもフランツが待っているという愛しさが、ボクの全ての時間を支配していた。
玄関の磨りガラスにほの見える白いカタチ、風呂場の扉の向こうで啼く声、ノシノシと布団の上に加わる重み、腕枕のなかで丸くなって押しつけてくる背中の丸み、そのときの匂い。
ひたすら悲しい。ただ切ない。
今日は雨が降っている。明日は火葬場へ行く。
ありがとう。
本当にありがとう。
フランツ。